9月29日 久しぶりにあの映画を観た。やはり僕にとっては大切な映画だったなと改めて感じる作品であった。

「響」という映画を借りるためには

どうやら4本同時に借りたほうが

安く済むらしいので

どの映画を借りようか迷っていたところ

この映画がレンタルされていることに気づいた。

それは「あの頃、君を追いかけた」だ。

これはどうやら台湾で映画化された作品のリメイク版であるようで

この言い回しから分かるように、僕はそれを知らずに

以前から話している乃木坂46齋藤飛鳥が主演であることに

興味を惹かれて観ることにした。

 

彼女はただの恋愛映画は見ないという。

現実はそうではないから。

理想を描きすぎているから。

色々な理由があるようで、

それでもこの恋愛映画の

主役を演じようと思ったのは

それらと比較して全く違う役割を果たす

恋愛映画だったからだそうだ。

 

そしてここから僕の感想に入ろう。

2回目の鑑賞であった。

1回目は涙をほんの少し流した思い出がある。

珍しく友達と2人で一緒に行った映画だったので、

ある程度我慢を下が抑えきれずに出てしまったような気がしている。

実際にはどうかハッキリと覚えていないのだけれど

なんだかそんな感情が今の僕には残っていた。

そんな中での2回目の鑑賞。

やはり良かった。

齋藤飛鳥と山田祐貴の関係性がとても歯がゆく、

いっそのこと0か100か分かってしまったほうが

前に進むのではないかとさえ思うほどだった。

それでも彼らは本気で悩んで

本気でその決断をしたのだなと思うと

なんだか僕の粉の感情は野暮なのだなと感じた。

彼があそこで彼女の返事を聞いていたら。

泣いている彼女の涙をあそこで拭ってあげていたら。

プライドを捨てて、謝ることが出来ていたなら。

そんな結果論ばかりが渦巻いてしまうのだけれど、

それでもそこにあった結論を受け入れていくことが

彼らの運命なのだなと妙に納得した。

彼らがそうある以上、僕らにつべこべ言う権利などないのだ。

なんだか愛とは呼べないような気も周りから見ればするのだが、

それはそれで彼等にとっての愛であって、

彼らにしかなしえない関係性であって、

彼らにしか生み出せない空気感なのだなと感じた。

周りと比べることの愚かさを改めて認識させられたのだが、

それと同時に周りから押し付けられる自分という存在を

どう認識するかを考えなければならないのだなと感じた。

彼は一生懸命で、幼稚で、バカなのだけれど、

一生懸命自分を生きているような気がした。

そして、周りの友達も彼に自分にとっての彼の理想像を押し付けることなく

優しく見守っている様子がとてもいい環境だなと感じた。

自分らしくいることはこの現代で本当に難しいのだけれど、

それが成り立つ彼らの生き方になんだかとてもほっこりした。

 

そして、どう見ても齋藤飛鳥は可愛いのだなと実感する。

うーむ。難しい。

例えば、僕が彼女と近づけたとして、

彼女のことを僕はもちろん知っているのだけれど

それでも知らないふりをしなければ彼女との距離は縮まらないし、

もし縮まったとして僕が好きな彼女というのは

その顔が好きなだけなのかもしれないし、

もしそこが否定されてしまうのであれば

男女という概念なんてないのではないかとすら感じるし、

僕は他人に対してそんなに興味もなく、

(実際はそうではないのかもしれないのだけれど、)

もしも他人と接するのであれば何らかのメリットを求めてのことだろうし、

とはいってもいつの間にか誰が捨て忘れたかもわからない

電車の中のごみを拾っている自分がいることも確かで、

アンビバレントとはまさにこのことで

自分に整合性が取れないこのむずがゆさに

頭がおかしくなりそうなこともあるので

あまり考えないようにしたりする。

 

だからと言って他人に

僕を結論付けさせることは大嫌いで、

君の知らない僕はどこにでもいるのに

知ったかぶれの君に指図されることなど

何一つないのだという結論には至っている。

 

だから今の僕はこうして

考え続けることしかないのだと感じたりもする。

そりゃそうだろと言われる筋合いもないのだが、

そういいそうな人も思い浮かぶ。

うるせえ。バカ。黙ってろ。

彼らにそう言ってやりたい気持ちはやまやまだが

なんだかそれも違う気がする。

人生の話などくそくらえ。てめえに何が分かる。

ああだこうだ御託を並べてみたけれど、

僕が思うのはそれだけなのかもしれない。