9月24日 今日も楽しい日常を送っている。この間見たライブがなんだか忘れられなくて、なんだか不安が心の片隅にある。

つい先日、欅坂46の東京ドーム公演を見た。

最終日。

欅のライブに参加するのは小さなフェスのようなイベント以来で、

ワンマンライブというのは初めてだ。

とても楽しみ。

平手がどんな感じなのか。

それによってこのライブの感じ方は変わるし、

僕の中でのこのライブの評価も変わる気がしていた。

 

結論。

とても素晴らしかったけれど、

期待をし過ぎてしまったのかもしれない

というのも少しだけあった。

これは欲張りと言われれば

何も言えないので注意しなければならないのだけれど、

素晴らしいライブだったことは間違いない。

よく考えると、

拾いきれなかったストーリーが

たくさんあったことを思い出す。

カフェテリアさんは3部構成ではないかと仰っていた。

難しい。そこまで考えることができなかった。

次は何の曲なのだろう、としか考えていなかった。

 

例えば、Student Danceのような

分かりやすいストーリーはある程度理解したけれど、

それまでだったなと後悔する。

ただ一つ言えることは、

とても盛り上がったこのライブを

その会場で直に味わうことが出来たことの価値は

計り知れないと思ったりする。

そんなに盛り上がらない僕が、

手を肩の上にあげてまでワイワイしていたことは本当に珍しい。

それほどの凄まじいライブでもあった。

 

最後の2曲はエゲツない瞬間に立ち会えたと思う。

死にそうになりながら表現する「不協和音」、

センターステージでたった一人でダンスを踊り

客を魅了する平手友梨奈

そして彼女に当て書きされた「角を曲がる」。

 

不協和音は久しぶりの披露だった。

といってもどれくらいやっていなかったのかはよく知らなかったので

少し調べてみると1年半ほどやっていなかったようだ。

紅白でのあの1件があってから制限されたように感じる。

欅坂46に対して何の興味もない人にとっては

少し怖く感じてしまうかもしれないけれど

彼女たちはこの曲を死に物狂いで表現する。

それこそ紅白では過呼吸になって倒れてしまったような子もいる。

そんな不協和音。それがこの東京ドームで久しぶりに披露された。

 

彼女の肝っ玉の大きさもそうだし、

それを支える振付師の人たちもそうだし、

ステージを構成した美術さんもそうだし、、、

あげ続けたらきりが無いのだけれど、

凄まじいプロの集団が凄まじい表現を

僕たちに提供してくれているのだと思うと、

自分は何をしているのかと少し悲しくなったりするが、

励まされたりもした。

 

彼女は世間からあるべき姿を提示されて、

それにのっとっていればどうにか平和に生きていけるのだけれど、

そう簡単にそうなりたくないと願う自分もいることを理解していて、

そうなれないことを意識しつつも

自分自身として我を貫きながらそこにい続けることの

難しさも身をもって理解していて、

それでも自分として居たい自分自身でい続けることを選んだ

彼女の生きざまのような、表現のような、

そんな彼女の存在がとても尊く、

彼女がこの世界を変えてしまうのではないかとさえ思わせるほど

何らかの力を見せられているような気がしてしまうのは

あの公演を見た人なら誰しもが感じていることのように思う。

今にも消えてしまいそうな、本当に儚くそこに存在する

5~6万人の中心にぽつりと踊りまわる平手友梨奈

僕たち自身の様にも感じるし、

そこで存在を認識してほしいかのように

飛び回る小さな虫のようにも感じた。

 

なんとも素晴らしい公演だったなと感じる。